沼間の歴史のはじまりは、鎌倉時代の少し前

東逗子の沼間地区の歴史は古く、1300年前奈良時代の【東大寺正倉院御物】からはじまります。最も有名なのは850年前、平安時代後期の武将「源義朝」が城を構えた沼浜城

鎌倉幕府初代将軍の頼朝には源義朝という父がいました。
その鎌倉の居館は現在の寿福寺でありますが、逗子にも沼浜城(ぬはまじょう)といわれた義朝の居館がありました。沼浜亭、沼浜館ともいわれていた屋敷です。
現在の逗子市沼間の桐ヶ谷邸敷地にあったのではないかという事が分かっています。

沼浜とは現在の沼間の基となった地名で、その歴史は古く奈良、平安時代の頃には沼浜郷として鎌倉七郷の一つに数えられています・・・
文献上の初見は749年【東大寺正倉院御物】の調布に『相模国鎌倉郡沼浜郷戸主大伴部広麻呂』とあるそうです。広麻呂さんは布一反を進納した様です。

この沼浜の館は【吾妻鏡】にも出てきます!
建仁2年(1202)2月29日 甲辰
故大僕卿沼濱の御旧宅を鎌倉に壊し渡し栄西律師の亀谷寺に寄付せらる。行光これを奉行す。この事、当寺建立の最初その沙汰有りと雖も、僕卿彼の御記念として、幕下将軍殊にその破壊を修復せらる。暫く顛倒の儀有るべからざるの由定めらるるの処、僕卿尼御台所の御夢中に入り示されて云く、吾常に沼濱亭に在り。而るに海辺漁を極む。

これを壊し寺中に建立せしめ、六楽を得んと欲すと。御夢覚めるの後、善信をしてこれを記さしめ給い、栄西に遣わさると。大官令云く、六楽は六根楽かと。

故大僕卿とは義朝の事です。北条政子の夢枕に立った時の話。
魂となって沼浜亭にいるが、浜が近く漁師が魚を取り殺生するので館を寺へ移して六根清浄を得たい。この夢の後に沼浜亭は寿福寺に移築されました。

引用:住和不産[逗子のなぎさを闊歩する]

鎌倉幕府を開いた源頼朝の父が、ここ沼間で幕府の礎を築いたといっても過言ではなさそうです。

ちなみに沼浜城があった土地には現在「桐ヶ谷歴史庭園」があり、江戸時代より続く逗子の名家である桐ヶ谷さんによって公開されています。神奈川最古のお墓や、奈良時代の横穴式古墳などもあり歴史の古さが窺えるスポットとともに素敵なローズガーデンが楽しめます。

なぜ沼浜が沼間に?

どうして沼間が沼浜という地名だったのかといえば、逗子の田越川の姿の変化にあります。

古くは沼浜郷といい、平安時代当時の田越川は今よりもずっと内陸に入江が入り込んでいて、東逗子までほぼ海という認識になっていたようです。

近世までは田越川を遡って沼間まで船が来ていた様で、鎌倉から房総方面へ船で行く場合、三浦半島をグルッと廻っていくよりは、田越川を行ける所まで遡って、後は陸送で半島を縦断した方が早かった様で、沼間と隣町の横須賀市船越町を繋ぐ道は陸送される船の往来が多かったようです。船越町の名の由来は諸説ありますが、これが一番しっくりきます。

引用:住和不産[逗子のなぎさを闊歩する]

また、前述した【吾妻鏡】の一説では沼間の漁師が『海辺漁を極む』ともいってますから、当時は法勝寺の辺りまで浜が迫っていた事の裏付けにもなります。

今も沼間の地主さんにお話を聞くと、「歴史は逗子より古いんだ、だってあそこは海だったんだから」なんて言葉がでるほど。電車の本数もぐんと減る東逗子には意外な歴史があったんですね。

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